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文宗 (唐)[ぶんそう]
文宗(ぶんそう)は唐朝の第17代皇帝。穆宗の次男で、敬宗の同年の異母弟にあたる。 ==生涯== 初名は涵であったが、立太子された際に昴と改名した。初めは江王に封冊されていた。826年に敬宗が劉克明によって殺害されると、劉克明と対立する宦官の王守澄派により皇帝に擁立された。朝政の実権は王守澄らが掌握し、文宗は皇帝としての実権を殆ど持たず、傀儡に近い存在であった。 親政を計画し、831年に宰相の宋申錫と共に宦官の討滅を図ったが失敗する。そして835年に再び李訓らと共に宦官討滅を図った。この時は朝政実権を掌握していた王守澄を自殺に追い込んだが、その後の宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、李訓らは殺害、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった(甘露の変)。 文宗は既に実子の荘恪太子永と蒋王宗倹を相次いで失っていたために、亡兄の敬宗の末子である陳王の李成美を皇太子としていた。しかし甘露の変が発生すると、宦官の仇士良らにより李成美は殺害され、文宗の異母弟である頴王李瀍が立太子された。840年、幽閉されていた文宗は33歳で崩御した。晩年に「周の赧王・漢の献帝は強臣に制せられたに過ぎないが、朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いたと伝えられている。
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